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今まで培った知識と技術を
地域の為に末永く役立つよう
次の世代に伝えていくことが
使命と考えています。
大きくすることよりも
強い会社を目指し
今後も地域に愛される
工務店・設計事務所で
あってほしいと思います。
有限会社アシストホーム
代表取締役
宮寺 透雄
ホームページをご覧いただきありがとうございます。有限会社アシストホーム 代表取締役の宮寺透雄です。
私が葉山町でアシストホームの設立に至った思い/経緯や将来のビジョンについて、ご説明させていただきます。
私の祖父は昭和35年から葉山町で工務店と設計事務所を立ち上げ、父は棟梁として大工工事を行っており、建築一家で育ちました。
そのため、小さなころから木の匂いを嗅ぎ、おがくずの中のカブトムシの幼虫で遊び、祖父や父が建築している建物のゴミ片付けをしてお小遣いをもらったり祖父と父の建築に対する熱意のある後姿を見て育ちました。建築した建物が人の手で造られる素晴らしさや末永く残っていくことの素晴らしさも幼いころから感じていました。
私自身は、幼稚園の頃から工作で物を造ることが好きで、大学入試を考えた時に20年後の将来を想像して建築学を学ぶこととしました。
大学一年の冬頃から祖父が体調を崩し病院通いが始まり、祖父は浮き沈みの多い建築は孫には継がせないと言っていたそうです。
その後祖父は亡くなり、尊敬する祖父に地域に愛され必要とされることで浮き沈みが少ない建築業を行う事を誓い、アシストホームの設立へと至りました。
葉山が大好きだった父と祖父に恥じることの無いよう誠心誠意業務を行ってまいりたいと思っております。
家を建てるとは「笑顔の暮らしを築くこと」。家族の安らぎや健康を守るために建てる。これが家の大前提です。住む人が健康でいるには、家が健康でないといけない。イギリスの家は70年もつと言われていて、「一代目が家を建て、二代目が家具を買い、三代目が食器を買う」ということわざがあるほど。それに対して今の日本は、不健康な家がほとんどで30年しかもたないと言われています。
昔の家屋は在来木造軸組工法。増改築にも適していて通気性も良く、高温多湿の日本には最適です。しかし、夏は涼しいけど冬は寒いという欠点が目立ってしまい、いつしか1年中室内温度を一定に保てる高気密高断熱住宅が主流に。確かに寒くなくなったけど、夏は内部に蓄熱して輻射熱でずっと熱い。エアコンをかけないといられなくなりました。高気密高断熱は空気の流れを止めてしまうためニオイもこもりやすく、消臭剤が手放せない。夏場は室内の有害化学物資の濃度が高まり、シックハック症候群を発症する空間になる。さらに悪化すると、化学物質過敏症を発症してしまうことも。このため、建築基準法では24時間換気が義務化されせっかく温めた空気や冷やした空気をエネルギーを使って捨てることになってしまいました。呼吸ができなくなった高気密高断熱の家は、健康にも被害を及ぼすようになったのです。
湿気もこもりやすく、壁内結露が生じることがあります。その結果、蒸れ・腐れを引き起こして腐朽菌やシロアリが発生してしまう。築100年の家の土台が、高気密高断熱に改装したら20年後には腐った事例もあります。日本で9割以上使われているビニールクロスも蒸れ・腐れの原因です。不健康な家にいたら、住む人が不健康になるのは当たり前。そんな住環境に子どもたちを住まわせてはいけない。お客様、子どもの代、孫の代まで末永く健康で暮らせる家を造ること。それが僕の、アシストホームのミッションだと考えています。
健康に重きを置くようになったきっかけは“人の生き死に”。僕が小学4年生の時、妹が交通事故で亡くなりました。建築を勉強すると住宅の健康被害が多く、死に繋がることがあると知って、妹の時のように大切な人を失う悲しみを味わせたくないと強く思いました。衣食住の住を担っている以上、病気になる環境に住まわせてはいけない。おかしいことはおかしい。お客様が安心して暮らせるよう、木材一つにしてもこだわります。
日本は多くの家で柱にホワイトウッド集成材を使っていて、ホワイトウッドなどの白い木は、不朽菌やシロアリに耐性がないから腐りやすい。じゃあなんでこんなに出回っているかというと、安いから。集成材が悪いんじゃなくて、木の性質を無視して使うからのちのち家が不健康になる。木にも適材適所がある。木材劣化診断士をはじめ他にも資格を持っていますが、知識がないとお客様の悩みや不安を解消できない。家造りの基本はお客様の問題を解決すること。お客様によって家造りも変わる。だからこそ、ベストなご提案ができるように知識を絶えず磨いていきます。
建築はいろんな切り口があるから、どんな切り口でも話せないといけない。それがプロの仕事。だから家造りの専門知識を深めています。
今でこそ徹底的に取り組むけど、子どもの頃は飽きっぽい性格。習字も始めてすぐ止めたし(笑)。集中するようになったのは高校の吹奏楽部から。中学も吹奏楽部でトランペットを吹いてました。でも、高校ではクラリネットをすることになって。やったことないけど一週間必死で練習して、コンクールメンバー入りに。毎日朝練・昼練・夜練をこなして、恒例の山中湖の合宿も、蕁麻疹が出ながら参加。ただひたすら取り組みました。
この経験から「やった分だけ成果は出る」と自分の中で確信。一定の山を越える前に辞めるのは0と同じ。最後までやり切らないとやったとは言えない。全国大会に出るのが当たり前の環境にいたからこそ気づけました。
人は生まれてくる時に「自分の課題を決めて生まれてくる」という話がありますが、僕自身そう思っていて、自分が解決できる問題しか起こらないと思っています。僕にとっては家造りがまさにそれ。日本の住宅事情を知って、いつまでも健康でお客様が笑顔で暮らせる家を造ろうと決めました。自分で気づいたことを解決するのがミッションだと思うんです。それが原理原則なんじゃないかと。健康な家造りがお客様の笑顔造りに繋がるーそれが家造りの大前提だと思うし、僕に与えられた課題だと思っています。
多くのみなさまに関わりながら私どもの理念に共感して施工させて頂いたお客様もいらっしゃいますが、会社理念や考え方をお話しできずに施工させて頂いたお客様もいらっしゃいます。その中で我々は会社の理念を少しずつ今後もお伝えしながら健康な住まいを一緒に作って行ければと考えております。
―自分史につづくー
第二次世界大戦後、米三は東京に無事帰還したが、焼け野原になった東京に働き口はなかった。妻・スミと子どもたちを食べさせるために始めたのが今でいう“白タク”だ。違法であるのは重々承知のうえだが、手段は選べない。家族を守るため死にもの狂いで働いていたが、誰にも辛い顔を見せなかった。その胸の内には、生へのただならぬ想いが静かに燃えていた。
戦時中、米三は一度捕虜になった。「天皇陛下万歳」で命を絶つことも惜しくなかった彼らにとって、天皇家を表す菊の御紋が刻まれた刀を持ったまま捕虜になるのは決して許されないこと。米三は、自分の刀に彫ってあった御紋を断腸の想いで削った。これ以上ない屈辱を乗り越えて生還した米三からすれば、死ぬこと以外は小事に思えた。なんとか白タクで食いつないでいたが、さすがにこのままではきつい。安定した職を手に入れるべく、米三は40代で二級建築士を取得した。その後、父・福三の知り合いが営む建設会社白井組へ入社。戦後復興期である当時、日活の映画館やホテルなど大型案件が次から次に舞い込み、繁忙極まりない毎日だった。米三も休日はあるようでないもの。休みでも電話が入ればすぐさま現場へ向かい、正月の元旦以外はほぼ仕事だった。仕事への真摯な姿勢と温和な性格から、米三は周りから“スーパーマン”と呼ばれるようになった。
白井組で十数年働いた後、米三は家族を率いて葉山へ移住して、1960年に中央工務店を開設する。きっかけは知人の戸建て注文。その建設地が葉山だった。山も海もあり、自然豊かなこの地をすっかり気に入った米三は、自分たちの拠点にしようと決意する。希望に胸をふくらませ葉山へやって来るが、移住当初は周囲からの強い風当たりに苦労する日々だった。よそ者扱いをされ、なかなか馴染めない。しかし工務店を開いた以上、地元の親方や職人たちに受け入れられないと何もできない。米三は懇意になるため、逗子にある「東郷園」で彼らを何回ももてなした。金を惜しまず座敷遊びに、美味しい酒と食事を振る舞う。そんな米三の姿を見て、頑固な職人たちも徐々に心を許していった。
米三は少しでも早く葉山の人たちと打ち解けようという想いが強かった。家族が安心して暮らすためだけでなく、自分が気に入ったこの葉山を、地元の人たちも全部ひっくるめて好きになろうとした。そんな想いが垣間見えるのが、米三が残した功績―団体の立ち上げだ。一般社団法人神奈川県建築士事務所協会の現横須賀支部の前身である「一水会」(毎月第1水曜日に集まることからそう名付けられた)の創設メンバーをはじめ、葉山町商工会の初期メンバー、葉山ロータリークラブのチャーターメンバーなど、0から仲間と団体をつくっていった。仕事でも、透雄が通ったどれみ幼稚園や旧葉山中学校の給食棟、海岸監視塔など公的なものから個人住宅まで建築、修繕を手がけた。
「おじいさんには本当に良くしてもらったんだよ」
「いつもみんなで行く旅行を企画してくれてね」
後に透雄は、あらゆる人から米三の話を聞くこととなる。米三への感謝の言葉を聞く度に、宮寺家がどれだけ葉山にお世話になってきたのかを知った。どんなに辛くても決して怯まず、葉山に貢献したいという一心で米三は動き続けた。その結果、米三は葉山の人たちの心に残る存在になったのだ。米三が愛し、愛された葉山にこれからも恩返しをしたいー葉山への愛は、孫の透雄にしっかりと引き継がれている。
1964年、透雄は葉山町で生まれる。自然に囲まれた葉山で、透雄は伸び伸びと育った。山と海のどちらもあるが、透雄はほぼ毎日海へ遊びに行った。小学校が終わったその足で向かい、釣りや水遊びを楽しんだ。日が延びる夏はつい遊びすぎて、帰りが遅くなってよく怒られていた。
透雄は物心ついた時から、自分のやりたいことだけをやる子どもだった。祖父・米三は「男なんだからやりたいことをやらせなさい」と言って自由にさせた。透雄は初孫で待望の男児だったこともあり、とてもかわいがられた。祖父は息子が欲しかったが、3人の子どもは全員娘。透雄をかわいがらないわけがない。
常に透雄はいろいろなことに興味津々だった。そのくせ、人からやらされるのは大嫌い。小学校でも頭ごなしに怒ってくる先生には耳を貸さなかった。唯一、スルスルと入ってきたのは4年次の担任。やんちゃをすると普通なら怒ってくるが、その先生は「宮寺くん、これはね、こうだからダメなのよ」と諭すように話してくれた。当時から、何事も根拠が分からないと納得しない性格だった。
勉強の好き嫌いにも性格が反映している。音楽・理解・算数には法則や方式があるから好きだった。答えを導き出すまでに段階を踏み、全てにつながりがあると分かると面白みを感じた。嫌いだったのは国語と社会。言葉や年号を丸暗記するのがどうも苦手で、頭に全然入ってこなかった。日頃から自然の中を駆け回っているだけあって体育の時間は活躍した。ドッジボールなど球技では、すばしっこい身のこなしでクラス中から注目を浴びた。
習い事も、行けと言われたものは長続きしなかった。書道・柔道・学習塾はもって1、2年。自分からやりたいと言って始めた空手は予想以上に肌に合い、6年次には茶帯までいく腕前に。大人相手に組手をして、泣かせてしまうことも多々あった。一緒に通っていた弟・健雄も頭角を現し、いつからか“伝説の宮寺兄弟”と呼ばれるようになった。
透雄は小学生の頃から想像力に長けていた。図工で石膏像を作った時は最初にワイヤーで土台を作り、その上から石膏をかけてより立体的に仕上げた。先生から絶賛され、卒業して数十年後に再会した際にも「あの時はすごかったわね」と言葉を掛けられた。
小学校6年間で、透雄は何回か幽体離脱を経験した。寝る寸前になると自分の体からふわっと起き上がり、原っぱへ遊びに行く。そんな自分をまた別の自分が見ている。本当に魂が浮遊していたのか、夢だったのかは定かでないが、客観的に立体をイメージすることができた。
幽体離脱では怖い体験もした。道を歩いていると“ザッザッザッザ”と足音が聞こえてきて“兵隊さんが歩いてくる…!”と怖くて逃げられなくなる。そして目が覚める、というものだ。後に足音の正体は自分の心臓の“どくっどくっ”という音だと判明すると、それから二度と見ることはなかった。何事も解決しないと気になって心に残ってしまう性格は、この頃には既に確立していた。
すぐに解決しないと気が済まない短気な性格は、父・騏一ゆずり。そんな透雄に祖母・スミは、九星気学の観点からこんな言葉をかけた。
“実るほど頭を垂れる稲穂かな”
「透雄は九紫火星で“火”を持っているから、心が温かくて優しいけどカッとなりやすいんだよ。頭のてっぺんから爪先まで全部見えるように、良いことも悪いことも見えるから、なんでも嫌な部分や不満を見つけてしまう。だからこそ、自分が良くなればなるほど、人には頭を下げてお願いしなさい」
祖母から繰り返し言われたこの言葉は、自戒の言葉として今も透雄の胸に刻まれている。
中学校に入ると透雄は水泳部に入った。しかし泳ぐのは夏だけで、面白くないのですぐに辞めた。その後、好奇心から吹奏楽部へ入部し、トランペットを始めた。吹奏楽部の担任だった西村先生は透雄をかわいがってくれた。派手な服装でテキパキ動きながら「あーた、あーた(あなた、あなた)」と話すのが特徴で、みんなから“おきゃん先生”と呼ばれていた。
先輩にもかわいがられ、コンクールでは優秀賞を受賞するなど部活動は充実していたが、透雄にとって中学時代はいいものではなかった。ある先生の一言によって“グレーな時代”となってしまったのだ。
それは中学2年次に起こった。突如、クラスの担任がホームルームで妹・君枝の話をし始めたのだ。
「あそこで宮寺くんの妹さんは、交通事故で亡くなったのよね」
透雄が小学4年次に、2才年下の君枝が亡くなった。交通事故だった。突然の出来事に、当時の透雄には受け止めきれなかった。
みんなの前で話す先生に憤りを感じた。心の底に閉じ込めておいた誰にも触れてほしくない悲しみを蒸し返され、透雄の心は平然としていられなかった。この出来事を機に、透雄は同じクラスの生徒と馴染めなくなってしまった。
なんとなく心にしこりが残ったまま、高校の進路を考える時期を迎えた。透雄の高校を決めたのは、西村先生だった。
「あーたは吹奏楽をやるんだから、逗子開成に行きなさい」
逗子開成高等学校の吹奏楽部は関東大会の常連で、レコードを出すなど三浦半島では有名だった。ちょうど「55コンサート」が開催されるというので、透雄はどんなものか聞きに行った。“すげぇところがあるんだなぁ…” 予想以上のうまさに透雄は感動した。余韻に浸る帰り道、心は逗子開成へ入ることを決意した。一度決めたら一直線になる性格は母・絢子譲りだ。レコードも買って、すっかり逗子開成に心奪われたのだった。
念願叶い逗子開成に入学した透雄は、吹奏楽部へ入部。中学校と変わらずトランペットを吹くつもりでいたが、人員不足のため急遽クラリネット奏者になってしまった。希望していなかったが“まぁいっか、面白いかも”と思い直し、がむしゃらに練習に励んだ。音の出し方から始まり、半音階を繰り返してメトロノームに合わせてひたすら吹く毎日。朝昼夕吹き続け、1週間後にはコンクールメンバーに選抜された。トランペットと違い、クラリネットは16分音符ばかりの真っ黒な譜面。『アルメニアン・ダンス パートⅡ』を吹いた時は、初心者の透雄には次元が違う速さで、全く吹けなかった。それでも「音を出せ!」としか言われない。“もうめちゃくちゃだよ!”と思いながらも、必死で食らいついた。やるからにはとことんやる、できなければ人並み以上にやる。透雄の徹底的に取り組むスタンスは、逗子開成で培われた。
中学校同様、透雄には恩師がいる。吹奏楽部担任の西野先生から、透雄は紳士道の一端を教わる。その頃ドラマの影響でツッパリが流行っていて、悪ぶる生徒が多かった。透雄を含む密かに憧れていた生徒たちに西野先生はこう言った。
「せっかくインテリジェンスな吹奏楽をしているんだ、つっぱるなら外見でなく、音楽でつっぱれ!」
これにはしびれた。透雄はこの言葉で、真の“男らしさ“を学んだ。
透雄の大学進学を語るにも西野先生は欠かせない。建築学科の進学を決めたのは、西野先生だからだ。透雄は化学が好きで、白衣を着て研究室に通う大学生活を夢見ていた。しかしそんな透雄に西野先生は一刀両断。
「宮寺、おまえは建築だ。おじいさんもお父さんも建築をしているのに、やらないこと自体あり得ない。おまえは建築の道に行け」
“なんで勝手に決めるんだよ”一瞬そう思ったが、この言葉が透雄を建築の道に導いた。小学校の帰り道には中央工務店の作業場があった。木のいい匂いがしたり、鉋屑の中にカブトムシの幼虫が紛れ込んでいたり、作業場での楽しい記憶が蘇った。“そうか、俺はやっぱり建築なのか…”常に透雄の生活には建築があることを思い出したのだ。こうして透雄は建築の道に進むことを決意した。
建築の道へ進むため、透雄は東海大学第二部建築学科へ入学した。奨学金制度を利用していたので、日中は学費を稼ぐため父・騏一のもとで週6日働いた。横浜をはじめとするあちこちの現場へ出向き、終わるとその足で駒場東大前まで通う生活を4年間続けた。毎日仕事と勉強のフル稼働、休みは授業が終わった夜と日曜だけ。夏場に父の手伝いで海の監視棟へ行った時、同じ年頃の若者が遊ぶ姿を見て“なんで俺だけ…”と苛立つこともあった。しかし、自分の決めた道。決して投げ出すことはなかった。授業が終わると“これからが俺の時間だ!”と意気込んで夜の街へ繰り出した。当時はディスコブーム絶頂期で、透雄も六本木・新宿・渋谷へ繰り出していた。よく通っていたのは六本木にあった「スタジオ・ワン」。高校の友だちを誘っては朝まで踊り続け、六本木から渋谷へ向かう道中にある公園で少し寝て、始発で帰ることも多々あった。
大学ではスキー部に入ったが、2年で辞めた。理由は中学校の水泳部と同様、スキーをするのはオンシーズンのみで、それ以外はほぼ飲み会。スキーを習ったのは片手で数えられる程度で、大半は飲み会で無理やり飲まされるだけだった。
もともと酒に良い印象がなかった。大人たちの酔っ払う姿を幾度となく見て、幻滅してきたからだ。新年早々酔いつぶれる親戚、普段はおとなしいのに酔っ払うと「透雄、お前なぁ」と愚痴ってくる父の弟子たち。何よりも、父の酒癖の悪さに辟易していた。酔うと延々に同じことを繰り返し、1時間の説教は当たり前。だから酒を“おいしい”と思えなかった。社会人になってからも、透雄はすすんで酒を飲まない。
スキー部を辞めると、自分の世界に浸る時間ができた。大学の帰り道、ウォークマンで音楽を聴きながら“俺は建築の世界に行くんだ!”と自分を奮い立たせた。長い通学時間は、読書を楽しめる時間でもあった。映画化された片岡義男の小説『彼のオートバイ、彼女の島』もこの頃のもの。透雄にとって通学時間は、ほっと一息つける貴重な時間だった。
大学2年生の時、父に耐えられず母・絢子が家から出て行った。戻ってくるまで10年の月日を要した。嫌な想いもしたが、この期間があったからこそ、透雄は建築に没頭することができた。
職人気質で伝えることが苦手な父は、うまく話せないと酒を飲んで怒り出し、家族に当たり散らした。母が何か言うものなら百倍返しで責めたてた。家を出て行った母は、親友が経営する天板焼きの店を手伝っていて、透雄も定期的に会いに行っていた。
母は透雄が中学半ばから大学半ばまで「鶴」というお好み焼き屋を構えていた。お好み焼き屋を開くのが父の夢で、母にそれを託したのだ。開業前、透雄と弟・健雄の休みに合わせて、家族みんなで本場のお好み焼きを勉強するために広島へ修行の旅に出た。いろいろな店舗を回り、具材やソースの味を研究する1週間ほどの滞在だった。
透雄は仕事も勉強も手を抜かなかった。大学4年間で完璧主義な性格がより強固なものとなった。単位を取るのも計画的で順調だったが、一つだけ放棄した科目があった。思ったよりもつまらないし、その単位を落としても支障がないので、途中で行かなくなった。
しかし、卒業してから約10年間、放棄した科目のせいで卒業できない夢を見るようになった。実際は無事に卒業できたのに、心のどこかで引っかかっていたらしい。同期と会ってその話をすると「俺も同じような夢を見るよ」と言う同期がいた。“俺だけじゃないんだ”と安堵したのか、そこからぱったり見なくなった。途中で行かなくなってしまったことへの罪悪感と、一度やると決めたらやり続ける本来の気質に反する行為がしこりとなって、夢になったようだ。やりきらないと納得しない透雄の真面目な性格が垣間見える出来事だった。
東海大学卒業後、透雄は有限会社淳和工務店へ入社した。当初は建売担当だったが、透雄は入社6ヶ月目で鉄骨造を扱う店舗の店長となった。父・騏一のもとで木造住宅には携わってきたが、鉄骨造は大学の授業で学んだ程度。店長は名ばかりだったが、当時の社長は「宮寺、ホームラン打ってこい!」と透雄に喝を入れた。意味がよく分からなかったが、その言葉でやる気が湧いて打ち込めた。
鉄骨造の知識が皆無に等しい透雄に、現場監督は怒号を飛ばした。職人は口が悪いのに加え、できない者には容赦ない。怒鳴られる度に“この野郎、二度とこんなこと言わせないぞ!”と心の中で叫んだ。持ち前の負けん気を発揮し、一日でも早く追いつこうと勉強に励んだ。だんだん知識を得て会話についていく透雄を見て、監督たちも徐々に協力的になっていった。
会社が新事業でリフォームを始める時も任され、クレーム対応も透雄の担当だった。新人だからといって業務に制限がなく、PCやCADなど新しいものを導入すると、必然と透雄の業務になった。
次々と新しいことを振られても苦ではなかった。ましてや、何かに没頭できる時間ができて助かった。この頃、家を出た母の元へ祖母と弟も行ってしまい、透雄は父と二人暮らし。本当は自分も出たかったが、叔母に「あんたが出て行ったらお父さん一人じゃない。それは絶対にだめ」と止められてしまい、渋々残った。ずっと一緒にいても楽しくないし耐えられない。家に帰りたくない時は会社の二階で寝泊まりができたので、泊り込んでCADにかじりついた。仕事というよりも、おもちゃを与えられた感覚で夢中になって取り組んだ。やればやるほどコツを掴んで、作業効率も上がっていく。どんどんできるようになるのが楽しくて仕方なかった。
0時ちかくまで仕事をする日もあったが、早く終わった日には愛車ソアラでドライブをしたり、高校の同級生が働いていた会社の近くにあるロイヤルホストへ食べに行ったりと、自分の時間も楽しんでいた。
当時は嫌で仕方なかったが、今となっては父から離れずに暮らして良かったと透雄は振り返る。口には出さなかったが嬉しかったようで、透雄の結婚祝いに父自ら借入れをして自宅をフルリフォームしてくれた。透雄は一銭も出していない。自分から離れずにいてくれた透雄への感謝の気持ちだった。口下手で不器用な父らしいやり方だった。
淳和工務店ではツーバイフォー住宅も扱うことになり、木造住宅と部門分けすることになった。これを機に、暖簾分けというかたちで「アシスト」という会社になり、透雄は取締役に就任した。同社が、現在のアシストホームの前身だ。
淳和工務店、アシストでの11年間の修行を経て、透雄は1998年にアシストホームを設立。設立当初、共に仕事をしてきた職人からお客様を紹介してもらったり、事務所移設の際にはお客様から6畳のプレハブ小屋を譲ってもらったりなど、周りの人から多くの協力を得た。設立以降ずっと黒字経営でいられるのも、葉山の人たちの力が大きいと実感している。
起業したことで“もっと葉山に貢献したい”という想いが強くなった。葉山の人が健康で幸せに暮らせる住まいを提供することを通して、葉山に貢献したい。だからこそ、家造りにも妥協をしない。近年主流となっている高気密高断熱住宅は防寒に優れているが、家自体が呼吸をしないので通気性が悪く、長く住むには適していない。そして、住む人に健康被害を及ぼす要因を多く含んでいる。笑顔が絶えない暮らしには、健康な家が不可欠。この信念のもと、アシストホームではWB工法を用いた“呼吸する家”を提供している。葉山の人が幸せに暮らせる家を造ること。それが、アシストホームが設立以来続けている地域貢献だ。
アシストホームを設立してから間もなく、中学校の同級生で葉山町議会議員である待寺真司氏に「葉山ふるさとひろば」のボランティアの誘いを受けた。
葉山ふるさとひろばは、1975年に始まった葉山の一大お祭りイベント。当時の神奈川県知事が提唱した「神奈川ふるさと祭り」の第一弾として、葉山町商工会青年部を中心とする有志によって開催された。以降40回も続く恒例行事になったが、補助金減額や少子高齢化による人材不足の影響で2016年に惜しまれつつ休止となった。
透雄も子どもの頃、祖父・米三に連れられて行ったことがある。“今もまだ続いているんだ“と、嬉しくも懐かしい気持ちが湧き上がった。透雄はすぐさま誘いを快諾。理由はただ一つ、地域貢献を通して葉山へ恩返しをするためだ。
透雄は高校生の頃から、自分の死について考えるようになった。自分の死後、周りの人たちから「一緒にいて楽しかったな」「あいついい奴だったよな」と楽しい話が尽きないような生き方をしたいーそんな人生を送ることが、いつしか目標となった。透雄の目指す生き様をしていたのが、ほかならぬ祖父だった。起業をして、建築事務所協会や商工会議所などあらゆる団体に出入りするようになると、いたる所で祖父の話を聞いた。葉山に残した功績や思い出話を、いろんな人が楽しそうに語る。移住当初はよそ者扱いをされて辛かったと聞いていたが、いかに祖父が葉山の人から愛されているかを知ったのだ。
祖父が愛し愛された葉山に、今度は自分が恩返しをしたい。そんな想いから参加した葉山ふるさとひろばでは、交通整備係として始めるもすぐに実行委員会のメンバーになり、2年目にはイベント委員会メンバー、3年目ではイベント委員長、そして第29~31回の会長を務めた。中核メンバーとして活動した15年間で、透雄は多くのことを学び得た。
イベントの組み立て方や運営など仕事につながることのほか、苦手だった人前で話すことも克服できた。友人の結婚式で挨拶するのでさえも緊張するほどだったのに、何百人、何千人の前でも話せるようになった。
営利関係のない人たちを一致団結させ、目標に向けて動かすことや人への伝え方など、損得がないボランティアだからこそ難しい問題に次々と直面した。それでも透雄が続けてこれたのは、純粋な奉仕の心で取り組んできたから。ただ一生懸命に続けてきたことで、かけがえのない人との繋がりもできた。透雄が“姉さん”と呼んで慕う実行委員の先輩は、悩む透雄を明るくカラっと励ましてくれた。話し合いでなかなか進まない時は、周りがフォローしてくれた。ボランティアでも手を抜かずに真摯に取り組む透雄を信頼して、実行委員の親族が新築依頼をしてきた。評判が評判を呼び、その隣2件からも注文をもらった。葉山のために、人のためにと打ち込んできた結果、透雄は多くの人たちと固い絆で結ばれたのだ。
葉山ふるさとひろばは終わったが、習得した知見を次世代に継承することも自分の使命として、他団体主催のイベント運営に助言をして後輩たちをサポートしている。葉山商工会主催「葉山工業フェスタ 技あり祭り」では、これまでの経験を生かしてアシストホームのWB工法体験ブースや、子どもたちが木と触れ合う機会をもてるよう、積み木コーナーを設置。楽しんでもらいながら知ってもらうことに重きを置いた企画を今も生み出している。
自分が培ってきたノウハウを惜しみなく還元して葉山に貢献し、葉山に暮らす人たちを豊かにする。それが透雄の、アシストホームの使命だ。お客様とお子様、そして孫の代まで心身ともに健康で暮らせる家を造ること。葉山をさらに笑顔が満ちた街にすべく、今日も透雄は家造りを通して葉山に貢献し続けている。
アシストホームの将来のビジョンとしては、今まで培った知識と技術を地域の為に末永く役立つよう次の世代に伝えていくことが使命と考えています。
大きくすることよりも強い会社を目指し今後も地域に愛される工務店・設計事務所であってほしいと思います。
1987年3月 | 東海大学(建築工学科)卒業 |
---|---|
1987年4月 | 有限会社淳和工務店入社 |
1988年 | 店長に就任 |
1991年 | 分社化、有限会社アシスト専務取締役就任、管理建築士就任 |
1998年 | 有限会社アシストホーム設立、代表取締役に就任し現在に至る |
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